情報科学研究所設立30周年記念座談会の記録情報科学研究所の起源と発展

出席者:坂本實(初代所長), 奥田和彦(第2代所長), 魚田勝臣(元所長), 斎藤雄志(元所長)竹村憲郎(元経営学部長), 小島崇弘(元情報科学センター長),佐藤創 ,元情報科学センター長の中村友保(元情報科学センター長), 綿貫理明(前所長)

大曾根:

 本日はお忙しいところ,情報科学研究所設立30周年記念座談会にご出席いただきありがとうございます。所長の大曽根でございます。座談会の司会を務めさせていただきます。実は,前所長の綿貫先生と共同で「専修大学情報科学研究所の起源と発展の研究」というタイトルで平成21年度の情報科学研究所の共同研究助成を受けております。その研究の一環としまして,本座談会を企画いたしました。その目的は,情報科学研究所が設立30周年を迎えるのを機会に,過去を振り返り,未来に活かそうということでございます。そこで,研究所の設立当時のことをよく知っておられる方々にお集まりいただき,研究所の起源を明らかにしたいと考えました。本日ご出席いただいたのは,初代所長の坂本實先生,第2代所長の奥田和彦先生,元所長の魚田勝臣先生,同じく元所長の斎藤雄志先生,元経常学部長の竹村憲郎先生,元情報科学センター長の小島崇弘先生,同じく元情報科学センター長の中村友保先生,現情報科学センター長の佐藤創先生,前所長の綿貫理明先生です。元所長の林勲先生と蔵下勝行先生はご体調が優れないということで,また,元所長の伊東洋三先生はスケジュールの都合でご欠席であります。なお,林先生からはメッセージ(付録)をいただいております。

 さて,座談会の進行でございますが,4部構成にしようと思います。第1部は「創設のころ」と題し1980年頃から1984年頃までのことを,第2部は「発展期」と題し,情報科学センターの下部組織として存在していた1985年頃から1998年頃までのことを,第3部は「安定期」と題し情報科学センターから独立以降の1999年頃から2004年頃までのことを,そして,第4部は「現在から未来へ」と題し,2005年以降の研究所のあり方について話し合っていただこうと考えております。情報科学研究所にとって耳の痛くなるようなお話もあろうかと思います。それでも構いません。どうぞ忌博のないご意見を頂戴できたらと思います。よろしくお願いいたします。

第1部:創設のころ

大曾根:

 それでは,第1部の「創設のころ」に関しての座談会を始めたいと思います。スライドにざっと創設のころの歴史をまとめてきました(表1)。

1961年に専修大学に初めてコンピュータが導入され,1962年に経営学部が設置されました。1964年に経営学部に電子処理コースが開設され,1972年に経常学部に情報管理学科が新設されました。そして,1980年9月に情報科学研究会が発足して,その翌年の1981年10月に情報科学研究所が発足しました(表2)。

どこを情報科学研究所のスタートラインとして捉えるかによって30周年がいつになるかが変わってしまうのですが,一応,1980年9月の研究会発足をスタートラインとして2010年を30周年の年とさせていただきます。発足当時の体制ですが,研究会の会長は坂本賓先生(経営),事務局長は林勲先生(経営)でした。事務局員としては,研究担当が山上精次先生(文),伊東洋三先生(荏常),佐藤創先生(経営),内藤豊昭先生(経営),編集担当が奥田和彦先生(経営),作間逸雄先生(経済),中村友保先生(商),森克美先生(経常),渉外担当が竹村憲郎先生(経営)と東条正城先生(文),会計担当が本江渉先生(経営)と小島崇弘先生(商),庶務担当が八鍬尊信先生(経常)と梶原勝美先生(商)という体制でスタートしたと1980年10月15日発行の「情報科学研究会だより第1号」に記録として残っています[l]。また,その年の12月に第1回シンポジウムを開催しており,大河内正陽先生,出牛正芳先生,早川武夫先生,小田切美文先生,竹村憲郎先生,大熊正先生,内藤豊明先生,さらには小島崇弘先生,黒田彰三先生,奥田和彦先生,伊東洋三先生,佐藤創先生が発表をしております。そして,翌年の1981年10月に「研究所」に格上げになり,初代所長として坂本先生が引き続き就任され,その後,奥田先生,大河内先生というように引き継がれております。本座談会では,この創設のころのいきさつについて,まず坂本先生からお話をお伺いし,その後,その当時の事情をよくご存じである奥田先生,佐藤先生,中村先生,竹村先生にお話ししていただこうと思います。

坂本:

 創立30周年記念ということで,どうもおめでとうございます。あらましは今,大曽根先生が説明してくださった通りです。本日はここに「情報科学研究所発足のころ」というタイトルで「情報科学研究」に掲載したものを用意いたしましたので,その冊子をご覧いただければと思います[2]。この冊子の別刷りの最後のところに,情報科学研究会の「研究会だより」(図1)というのがあります。

そこをご覧いただくと運営委員の名簿があります。運営委員は,その当時,古い方というか偉い方というか,大河内先生,出牛先生,早川先生,高須先生,笹井先生,吉岡先生といった方々であり,そういう方々も関係して研究所は出発したことになります。一方,事務局でございますけれど,ここはその当時の若い先生方で構成しており,伊東先生,佐藤先生,奥田先生,竹村先生,中村先生,小島先生,その他のお名前がありますように,今日お集まりになられた先生方が実質的に発足に関わられたということかと思います。「研究会だより」は,この冊子では活字になっていますが,その当時はガリ版で刷りまして,会員の皆さんに配ったことを思い出します。冊子の13頁に年表があります。一番左側の列が,大学は当時どうであったかということを,中央の列が,当時の電算室,現在の情報科学センターとの関係を,右側の列に情報科学研究所について年代を追って書いてございます。これは,先ほど紹介のあった大曽根先生の区分ではなく,10年ごとに区切っています。当時の私立大学における計算機の利用は,東京大学の大型計算センターを利用しており,1965年に全国の共同利用施設として発足しました。コンピュータはとても高価だったのでしょう,私立大学は自前でコンピュータを持つことは当初はできず,共同研究利用ということが始まったわけです。そして,1972年に経営学部に情報管理学科が設置されました。これは,コンピュータ教育を行う文科系では日本で最初の学科ということで非常に注目されました。一万,1977年には,私情協(私立大学情報教育協議会)の前身である私立大学等情報処理教育連絡協議会が発足しました。専修大学では斎藤先生や佐藤先生などが理事を務めるなどいろいろなことで関わっておられると思います。そして,1980年に情報科学研究会が発足しました。研究所の起源をどこに求めるかということになると,ここが起源ということになりましょう。どんなことからこの研究会が始まったかということは,冊子の2頁あたりに記載してあります。その当時,電子計算機の運営委員会がありまして,そこで,大学がコンピュータを教育や研究に取り入れるにはどうしたらいいかというようなことを話し合ったことが大きなきっかけかと思います。そして,計算機の学術利用のための組織が必要ではないかということになり,それで,1980年6月に当時の高橋長太郎学長に「情報科学研究所」設立のお願いに行ったのです。高橋学長は当初,「そんなに研究所がいくつもある必要はないじゃないか,もう統合しようじゃないか」とおっしゃっておりました。「研究会」ならばあまり大学としての位置付け等は問題にならなかったのですが,「研究所」となるとそうはいかず,その当時,研究所がたくさんあって,研究所の統合を検討していたという背景もあったようです。研究所設立のために何回か会合を持ちましたが,高橋学長は統計学をやっておられたので情報に関して理解もあり,「情報というのは学部横断的なので当然あっていいじゃないか,既存のものより重視して,これからの動向からそういうものを作ることはいいことじゃないか」ということで,結局,「研究会」として認められたわけです。さて,この冊子の9頁を開いていただきますと,共同研究者名の中に鳩山由紀夫という名前がございます。鳩山さんはご承知のように専修大学には1981年,ですから研究会ができた翌年に助教授として就任されました。当時,彼はオペレーションズ・リサーチの専門家ですけど,この科目の担当者は既にいたためか,教養で統計の担当として就任されたわけです。そして,1984年に政治家になるということで辞められるまで3年間在職されました。先日,テレビ番組で竹村先生が紹介されたように,「見合いの数理」とかそういう論文があります。その当時,情報科学研究所や情報科学センターを作るために,見学をしたほうがよいということで,小田切学長になったばかりのころですかね,大野寛成さんや鳩山さんを含めて金沢工業大学や長岡工専へ見学に行きました。まあそんなこともあって,鳩山さんはこの研究所の発足2年目に編集委員をやるとか,共同研究に関わるとか,あるいは論文を投稿するとか,研究所にいろいろ関わりをもっておられたということですね。ここに写真を持ってきましたが,何回目かの研究所のシンポジウムで私が撮ったもので,当時はこういう姿でした。話が脱線いたしましたが,情報科学研究所なので,当初の活動状況とかの情報は割合残っておりますので,それぞれ振り返って見てみれば,当時の様子も分かろうかと思います。私の話はひとまずこのくらいにしたいと思います。

大曽根:

 どうもありがとうございました。それでは次に,奥田先生に研究所ができたころの様子についてお話を伺おうと思います。お願いいたします。

奥田:

 初代所長の坂本先生からお話がありましたが,私がなぜ2代目の所長になったのか分からないのです。また,私が所長時代に何をやったかということを思い出そうとしているのですが,事務局長をなさっていた佐藤先生のほうが詳しいのではないかと思うのですが,恥をさらしますと,研究所における私の貢献は,この「情報科学研究」という年報の表紙を作ったことです(図2)。それがひとつ印象に残っております。

 それから,もうひとつ印象に残っておりますのが,たまたま私の研究領域が,マーケテイング関連でございまして,その当時は,商業学というものがマーケテイングの中心になっておりました。私は,マーケテイング・サイエンス学会というものに興味がありまして,中村先生も入っておられたのですけれど,従来の商業学のマーケテイングより,もう少し科学的なマーケテイングというようなことにもの凄く関心がありました。科学化ということを仮に計量化ということで置き換えますと,どうしてもこの情報科学というものが関わってくる。そういった意味で,情報科学研究所の所報に2回ばかり,そういう科学研究,社会科学ないし自然科学,工学まで含めてですけれども,そういう領域で科学化を志す場合には,どんな方法があるのだろうかと自分自身悩んだことを,所報のN0.2とN0.8に書かせていただきました[3,4]。つまり,何が言いたいかといいますと,私自身は研究所に対するコントリビュートは何もないのですが,ただ,所員である先生方の学際研究というものを刺激すること,そこもできるだけ根元のところを目覚めさせていただくことに,少しは貢献できたのではないかと思います。

 事務的なことは,ほとんど佐藤先生にやっていだだき,研究会の運営とかそれから,シンポジウム等々,研究所の活動については佐藤先生が一人でいろいろ企画・運営していただいたので,過去のことではございますが,この席を借りて改めてお礼を申し上げたいです。まあ,そんなことでさしあたりお許しを願いたいと思います。

大曽根:

 ありがとうございます。それでは佐藤先生お願いいたします。

佐藤:

 突然順番が回ってきたので,気持ちの準備ができていませんが,僕が喋るとなると,最初,大曽根先生が言われた痛い部分というか,僕は標準的でないから,ふさわしくない発言になるような気がして,少し考えあぐんでおります。情報科学研究所は,研究所になる前に「研究会」ということで発足をしたのですね。それは,僕はたいへん望ましいことだと思っていました。この研究会は,自分の身になるようなことを吸収する会だというふうに位置付けていました。それまでの学内の研究所というのが,実態は,僕はつぶさには知らないのですけれども,大学から研究費を引き出すための手段としての機能は果たすけれど,研究所という名称に値するような研究をやっていないのではないかというような,ちょっと漠然とした不満をもっていました。当時,自然科学研究会というのがありまして,それは研究会として非常に良い活動をしていたわけです。そういうこともありまして,研究会という形のほうがいいのではないかと,私達に実質的に意味があるのは研究会じゃないかと,そういうことで研究所になることに対して強力には反対しませんでしたけれども,研究所ではないほうがよいのではないかというスタンスをずっと取り続けていました。それで今,奥田先生のお話を伺って,私が事務局長として少しはコントリビュートしたのだ,それなりに役割を果たしたのだと今初めて思いました。次の代の林先生が所長時代にも事務局長でありまして,その時,今思えば一つの事件が起こったように思います。その当時,予算というのは必ず消化しなければならないものだと僕は認識してなかったのですね。お金を取ることが目的ではないのだと,活動が目的なのだと思っていました。それで,何万円か予算の消化ができてなかったのですが,私は無理に消化しないで大学に戻してもよいと考えていました。そんなことをすると世間一般と同様に予算請求の不備,運営管理の不徹底の責任を問われることになり,次年度の予算請求が困難になる,という常識がなかったのです。そのことで所長には多大な迷惑をかけてしまったことを覚えています。研究所というのは,そこにみんなが集まってわいわいやりながら,自分の研究を深めるというのが,本来の目的だと思っています。そのためにはお金も必要ですけども,研究する時間や議論する時間が必要なのです。そういう点が大学側に認識されていないことが不満だった気がします。何のための研究所かということの意味を私たちはよく考えなければならないと今でも思っています。

大曽根:

 今,佐藤先生からお話のあった自然科学研究会と情報科学研究会の関係はどうだったのでしょうか。また,なるべく全学的にメンバーを集めようとお考えになっていたのでしょうか。そのあたりを含めて,中村先生にお話をいただきたいのですが。

中村:

 この冊子の4頁の発起人名簿(表3参照)を見ていただくとわかるように,情報科学研究会のかなりのメンバーは自然科学研究会のメンバーでもあるし,それから例えば,法学部の早川先生は,佐藤先生と一緒に多変量解析をやっていた関係で,研究会にお入りになっていたのかもしれません。

商学部の梶原先生は,私が当時一緒に研究をやっていたということでメンバーになっていただきました。なるべく全学的にというのは,まさにそうです。佐藤先生のお話を伺ってだんだん思い出してきたのですが,当時は所員が何人いるかということが予算に関係していたのです。今はもう所員が何人いても予算は増えない時代になってしまったので,関係ないですが。そして,先ほどの話のように,情報という研究分野は経営学部情報管理学科だけでなく全学的なものであるので,全学的に発起人を集めようということがあって,かなりいろいろな先生方に声をかけました。そして,発足したときはすごく会員が増えてしまった。いや,増やしたのです。ところが,たくさん会員が増えて何が問題かというと,実質的な活動のない幽霊会員も増えてしまうことです。幽霊会員でも一応,年報や所報などを送らなければいけないのですよ。僕は発足時に,年報や所報の編集の仕事をしていました。奥田先生のお話された年報の表紙の云々ということもよく覚えています。それで,ちゃんと研究に少なくとも関わりのある人だけを所員にすべきだという議論をしました。僕がかなり強く言ったことは覚えています。その結果どうなったかというと,「所員名簿を作成するので,そのまま残りますか,残りませんか」ということを聞こうということになりました。まあ,それでも積極的に辞めないという人が結構いましたけれど,かなり整理したということは覚えています。それが良かったかどうかは分かりませんけども。

大曽根:

 ありがとうございます。それでは竹村先生お願いします。

竹村:

 最初に申し上げたいのは,本日の30周年記念座談会は,たいへんタイミングがよいと思いました。よいご提案をしていただいたのではないかと思います。その理由は,いずれ我々がいなくなってしまうからです。そういう意味で,このあたりで情報科学研究所の30年間の歴史をまとめるということは,たいへん結構なことであると思います。私の印象では,情報科学研究会というのは,初めから坂本先生が中心で運営されていたということです。その当時は,私が経営研究所の事務局長をやっていた頃の時期だと思いますが,私はそういう意味で,大曽根先生から今回の座談会に関して声をかけられた時に,「私はそれほど情報科学研究所には関係してないよ」ということを申し上げました。名前だけは登録しておいたという,ある意味,幽霊会員みたいなところがあります。その意味では,私はあまり情報科学研究所には貢献はしておりませんし,情報科学研究所で何をやったかなということをなかなか思い出せないところであります。その中で非常によく覚えているのは,先ほど坂本先生がおっしゃった研究所を作るための視察として,金沢工業大学に7,8人で見学に行ったことです。その時は鳩山さんもいて,お城の石垣に登ったことだけはよく覚えています。金沢工大は,その当時から図書館とコンピュータ室が一緒でした。そういう意味では,非常に先進的に情報処理教育やCAIをやっていました。

 さて,この情報科学研究所のできたいきさつですが,電算室の運営委員会は情報科学センターの母体ではあるけれど,情報科学研究所の母体ではないと思います。その当時,各学部は二つの研究所を持っていました。例えば,商学部は商学研究所と会計学研究所というように。ところが,経営学部は経営研究所しかなかったので,もうひとつ研究所があってもいいよねというようなことがきっかけだったという印象を持っています。

坂本:

 竹村先生のお話とは,少し違いますが,運営委員会で情報科学研究所の話がでたことが研究所誕生のきっかけだったのです。「学部に二つの研究所」というのは,情報科学研究所を認めさせるためのひとつの公的根拠に使われたのではないでしょうか。

竹村:

 そうかもしれませんが,現象的には,「学部に二つの研究所」というような受け止めを,少なくとも僕はしていました。そういう観点で,経営学部が経営研究所だけの一つの研究所のままではまずいと思っていました。ある意味,学部のセクショナリズムみたいな感じで。そういう意味で,情報科学研究所ができることは大いに結構という気持ちでした。経営学部以外は,コンピュータに関係していた先生に入ってもらったという印象でした。先ほど話に出た早川先生は,「法とコンピュータ」で有名な先生でした。それで最初から参加していただいたと記憶しています。

大曽根:

 この冊子の1961年にコンピュータ(OKITAC-5090C)が設置されたというのは神田校舎ですよね。

竹村:

 そうそう。その後,コンピュータ(IBM1440)を生田校舎の現在の2号館の211教室長設置したのではないかな。

佐藤:

 僕は,経営学部発足当時のそのような歴史をとても印象深く読んだ覚えがあります。学部開設の前に,10人くらいのエキスパートを専任教員として呼び集めた。そして,コンピュータの研究会か講習会かを神田校舎で行ったら,それに多くの人たちが集まって大変な熱気だったという話です。OKITAC-5090C導入時のことだったかも知れません。

竹村:

 経営学部の中でコンピュータ教育をしっかりやろうということを阿部邦彦先生などが考え,コンピュークを生田校舎に設置したと聞いています。この辺の歴史を一番よく知っているのは森克美先生かもしれない。その次に古いのが僕になるかな。僕は昭和45年の入職になるから1970年です。

大曽根:

 それでは次に,小島先生お願いします。

小島:

 私は実は専修大学とは妙な因縁がありまして,最初に専修大学の経営学部の教員に応募したというか紹介されたときに,先ほどの阿部先生という方にお目にかかったことがありました。理科大の木村先生という,前に専修大学にいらした先生に連れられて,専修大学を見学しに来たのです。その時に,森先生もおられたのかもしれない。また,日暮里にある電算学校で私が教えていた女子学生が専修大学の電算室に就職しましてね。彼女は専修大学に2年くらいおりました。私の就職の方は,ものの見事にはじかれました。私は2番目だったそうです。1番目が大河内先生だったので,諦めがつきました。

 その後,また再度,今度は商学部を受け,中村先生と同期で入職をしました。最初は商業数学という講義を担当しました。31年くらい前の話で,情報科学研究所のできる前の話です。その当時は,古いほうの1号館がまだかろうじて残っていまして,そこにコンピュータがあったように思います。いや,2号館にあったのかな。1979年に新1号館というのができて,コンピュータも新1号館に設置され,経営学部の先生方は新1号館に研究室を持ち,我々は2号館の4階で2人部屋の研究室に取り残されました。

 そういう状況だったので,間違っているのかもしれませんが,コンピュータはどちらかというと経営学部情報管理学科の道具として置かれているという印象でした。ところが,文部省の方針で,全学的な利用方法をしないと補助金を出さないというような話が出てきました。それでは,コンピュータ利用に関する全学的な組織を作ろうということで,作られたのが確か運営委員会だったと思います。それで,当時,商学部でコンピュータをやっていたのが私と中村先生と二人しかおらず,年齢順からいって私のほうが年上だったものですから,私が運営委員会のメンバーに入りました。ですから,私は,情報科学研究所というよりは情報科学センターのメンバーという形で入りました。情報科学センターで最初にやった仕事が何だったかというと,機種の選定でした。その後,情報科学センターがだんだん全学的になってきたので,それに付随する研究所も必要じゃないのかということで,情報科学研究所ができたと,私は考えています。先ほどの「経営学部にも二つの研究所」というような絡みもあったのですけれど,結局,形としては情報科学センターと,それに絡む形で情報科学研究所というものができたと,私は理解しています。私は,その頃,地下実験室に行っていたので自然科学研究会のメンバーに加わっており,なぜか会計学研究所にもいまして,情報科学研究所のほうではあまり活動はしていませんでした。むしろ,情報科学センターを通じで情報科学研究所と接触するということのほうが多かったかなというのが,情報科学研究所の設立のころの話であります。

大曽根:

 ありがとうございます。何か言い残したことがある方はおりますか。

奥田:

 学内にいろいろな研究所がありますね,それで,この情報科学研究所というものが一応,各学部に共通する学際的な研究機関なのか,経営学部を中心にした研究所なのか,その辺をもっと最初のころに議論をかなり詰めておかなければいけなかったのではないかという気がします。佐藤先生の話とも関係しますが,やっぱり研究所なのだから,研究の原点は,コンピュータを中心とした学際的な方向を目指すべきだ,ないしは,経営学を中心にしたものを目指すべきだというような基本的な議論がないといけなかったのではないかと思います。

中村:

 研究会設立当時の第1回のシンポジウムだったと思いますが,そこでは,この研究会はいろいろな分野の人たちと関係があるということをいっていたと思います。先ほどの話のように特定の学部の研究所ということでなくて,全学的な研究所だよということを強調していました。ただし,実際にはそうならなかったけれども。

奥田:

 そのシンポジウムの議事録というか,そういうまとまったものが何かないのですかね。やっぱり30周年記念として,情報科学研究所の源流を明らかにする必要がある。最初のイメージでは,情報というのは,自然科学や工学の発想だという先入観があったのです。だから,経営学ないし,もっと広い意味の社会科学の中で応用していくには,コンピュータをあらゆる学問の共通道具として使えるのだというような,つまり学際的道具として使えるのだとかいう基本的な議論の議事録が残っているとありがたいのですが。

坂本:

 それはですね,所報No.1(図3)に,発起人として学長宛てに書いた文書ではこうなっています[5]。

そこは,どれほどみなさんと議論して苦いたかは今ではわかりませんが,一応活字としては,「電子計算機を利用し数理的方法を用いる科学研究の方法は,周知の通り,理工学においてはもとより,社会科学,人文科学においても云々」と,その主旨は書いてあります。だから,竹村先生がおっしゃった「学部に二つの研究所」ということと連動したと同時に,当時の学長としては,やはり学際的,あるいは学部横断的な研究所であるとしないと,学長自ら当時の本学の研究所を少なくしようとすることに矛盾する。認めるにあたって,高橋学長にとっては,この研究所が学際的であることが必要であったと思います。

大曽根:

 研究所のできた1980年っていう頃の環境ですけれど,パソコンはまだない時代ですよね。コンピュータを使うといっても大型計算機を使う時代だったと思います。そうすると,プログラムを書いてコンピュータを使用するという時代だったと認識してよろしいですか。

竹村:

 FORTRANとCOBOLだよね。

大曽根:

 それらの言語を勉強するために研究所に入るのではなくて,それらの言語を使える人だけが研究所に入ってきたということですか。

中村:

 そうですね。教員向けの講習会とかは特にはしませんでしたね。

齋藤:

 私は1985年に入職したのですが,当時の計算機は日立のM-180という計算機で,今からみると遅かったですね。1年間の8,760時間の電力需要を1時間ごとに並び変えるプログラムを作って実行したら,上限15分で打ち切られてしまうのですよ。そうすると,計算がいつまでたっても終わらない。もうひとつは,グラフの描画です。今はExcelでやりますが,その当時はグラフを善くのがまた大変で,ちょっとした曲線のグラフを書くのに,一週間かかりました。

坂本:

 当初は,今の1号館の4階の角に東大の大型計算機と音響カップラーを使用して接続していました。それも一応,研究会,そしてその後,研究所が管理していました。

大曽根:

 ありがとうございます。それでは休憩後,第2部に移りたいと思います。