情報科学研究所設立30周年記念座談会の記録情報科学研究所の起源と発展2

第2部:発展期

大曽根:

 それでは,第2部に入ります。第2部は「発展期」ということで1985年頃からのことを振り返りたいと思います。1985年に情報科学センターが設立され,それに伴い,情報科学研究所は情報科学センターに吸収され,センターの下部組織になります。また,1989年ですが,この年は私が入職した年ですが,ちょうど専修大学も激動の年であり,学長が小田切学長から望月学長に変わり,理事長も森口理事長から山下理事長に変わったというような年です。この時代は,コンピュータも大型計算機の時代からパソコンの時代に変わろうとしている時代です。情報科学研究所は,所長が林先生から坂本先生,斎藤先生,伊東先生と受け継がれていきました。このあたりのお話を斎藤先生から伺いたいと思います。

齋藤:

 大曽根先生に作っていただいたExcelの表を見ますと,私が情報科学研究所の所長になったのは1989年の4月から1991年の3月までということで,栄えある平成の第1号所長だったのですね。でも,私自身の印象は,それほど大きな仕事をしたという記憶がありません。だんだん発展期に入ってきたということもあるのですけれど,いや,発展期はある程度過ぎたのかもしれませんが,次の安定期の前触れみたいな時代だったような気がします。私は当時,まだ所長になってからしばらく,そしてその後も,情報科学研究所を作るにあたって,坂本先生他みなさんがいろいろと苦労をされてこの研究所を作ったという事情を全く知らなかったものですから,また,情報科学センターの下部組織に研究所が位置づけられていたということもあって,今の大曽根先生がやられている熱心な活動もやっていませんし,また,初期の坂本先生が作ったころの研究所の活動と比較すると,所長としてはたいへん楽に仕事をさせていただきました。坂本先生は,この表を見ますと所長を2回も3回もやられていますが,私と坂本先生の間では,私がネットワーク情報学部の学部長になった時に,坂本先生には私がやっていた情報科学センター長をもう一度お願いしたのです。それを私と坂本先生の間では,「再履修」というように言っているのですが,坂本先生は情報科学研究所の所長のほうも「再履修」されているということですね。

 私が,情報科学研究所の中で印象に残っているのは,ひとつは1号館1階の研究所の部屋です。倉庫みたいなところで非常に暗い部屋でした。それからひとつだけ私が貢献した点はですね,崎野滋樹先生の発案により,この冊子の表にありますように,1991年に研究所で英文誌(Infbmation Science and Applied Mathematics)を創刊したという記憶があります(図4)。

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そういったことぐらいではないかと思います。わりあい地味な活動しかしなかったと思います。世の中をみますと,パソコンというかインターネットが本格的に世間で発展するというか,世間で広まるのは1992年くらいですよね。パソコンそのものは1982,3年ぐらいから世間では使われております。一方,インターネットは,アメリカで1969年にARPANETとして始まりましたが,日本で本格的に広くポピュラーになるのは1992,3年頃です。私は,情報技術とかコンビュータ技術の非常な発展の中で,学生時代から現在まで過ごしている。したがって,非常に良い経験をしたとは思うのですが,今思うと,全て先の見通しがなかった。情報技術がこれほど発展するとは,コンピュータ技術がこれほど発展するとは,全く予想できなかった。これは,私自身の実力だったと思いますけれども。非常に個人的なことをいうと,大学2年生で電子工学に配属されたのですが,配属されて1カ月か2カ月で電子工学が非常に嫌いになりました。私の趣味に合わないのです。その当時は,私は物理学とかそういうもののほうが好きだったという気がします。だけど,今思うとそれは,学生の私が,電子工学とかそれから情報技術のこれほどの発展を全く見通せなかったからなのです。これは,大学の授業を真面目に聞いていなかったということと,やはり世間のことをきちんと勉強していないと先は見通せないということですね。でも,そういう時代にあって,いろいろな発展を直接見ることができたのは,たいへん良かったという気がします。

大曽根:

 先ほどおっしゃった1号館1階の研究所の場所のことですが,もっと良い場所はなかったのですか。

齋藤:

 確かにあそこはやや暗い部屋で,イメージ的にはほとんど倉庫でしたよね。それで,他の場所を色々探すような努力を多少はしたとは思うのですけれども,とてもそんなよい場所はあげられないということだったと思います。今回は1号館の3階の比較的明るい場所に移りましたが,そういうことは,当時はちょっと無理でしたね。研究所の環境があまり良くなかったことは,研究所の活動にとっては,マイナス要因だったかなという気がします。

小島:

 場所の件ですが,なぜあそこにしかならなかったかというと,まず1号館4階は事務センターが入っていて,3階が情報科学センターで,2階が経営学部の研究室で,1階が教室だったのです。そういう状況の中で,やっとあそこを取ったというのが事情です。

竹村:

 あそこを取るのも結構,苦労したよね。

坂本:

 最初は,1号館の入り口近くの大きな部屋を確保しようとしたのです。そうしたら,そこは新入生の身体計測を行う場所として非常に有用な場所だから,とても無理だというような当局とのやり取りもあったりして,結局その隣の部屋になったのです。

大曽根:

 ありがとうございました。

第3部:安定期

大曽根:

 それでは,第3部に入ります。第3部は「安定期」ということで1999年頃からのことを振り返りたいと思います。1999年に情報科学研究所は情報科学センターから独立をします。一万,1997年に9号館が完成し,情報科学センターではクライアント・サーバ・システムを大規模に導入し,インターネットの時代に入ります。この前後の期間,蔵下勝行先生が所長を9年間と随分長くやられております。そのときの事務局長は魚田勝臣先生でした。魚田先生ご自身は所長を1年間しかされておりません。それは魚田先生が経営学部長に就任されたためで,その後を「再履修」ということで,また坂本先生が所長になられたわけです。それでは魚田先生に,蔵下先生の所長時代も含めてお話をお願いいたします[6]。

魚田:

 ちょうど蔵下先生と僕がペアで所長と事務局長を務め始めたころは,まだ情報科学センターの下部組織でした。それで,蔵下先生が一生懸命運動されて,独立しましょうというふうに決められたのです。それで,所長はだいたい,そう長いことやるものではないということになっていたのですけども,センターの下の所長から,独立した情報科学研究所の所長になったので,もう一回やれるなということになって,やってもらうことになりました。その当時,蔵下先生は私情協(私立大学情報教育協会)の常務理事をされておられて,それらしい肩書きも必要だった事情もあるようです。

 そのような経緯で,センターの下にあったのを独立させたということで,蔵下先生はたいへん良いお仕事をされたのではないかというふうに思います。僕がもうひとつ印象に残っていることがあります。それは年報です。年報について蔵下先生がこだわられたのですよ。予算が足りないから年報をカメラレディで作成しようと提案したら,蔵下先生は断固反対されて,これは大事なものだから,印刷業者に頼んできちんと作りましょうと言われたのですね。私も確かにその通りだなと思って,印刷業者に活字を組んでもらう方式を続けました。私が貢献したのは,やっぱり論文誌というのはきっちりしたほうがよいと思い,査読をきちんとつけるようにしたことです。内輪でやるのではなくて,二名の査読者をつけてしっかりとチェックをする仕組みにしました。この査読の制度は,渡辺展男先生に作成していただき,今は高橋裕先生にしっかり引き継いでもらっています。今振り返っても,あれは良かったなと思います。逆に失敗したと思っていることは,僕か次の所長さんがやったのか記憶が定かではないのですけれど,幽霊会員を切ってしまったことです。その時に鳩山さんも一緒に切ってしまったのですね。鳩山さんが首相になられたとき,切るのをやめとけばよかったと思いました。ですが,今は切って良かったかなと……。

中村:

 先ほど安定期というお話がありましたが,安定期という時代は,実は世の中の仕組みが変わってきた。つまり,それまでは先ほどのどなたかのお話のように,もともとプログラムを自分で作るような人たち,あるいは自分で計算機を使うような本格的な計算のためのメンバーがかなり集まっていましたよね。それが自分たちの研究に結び付いている。ところが先ほどの話のように,パソコンが普及しだして,みんなパソコンを持つようになった。それから,インターネットを使用しで情報の収集をする。つまり分析よりも収集ということになってきた。だから,別に研究所へ来なくてもよいという人が増えてきた。現に,従来の経営学部にしろ,新設のネットワーク情報学部にしろ,一応,情報と言っても,いわゆる我々が昔やってきたような情報ではないわけですよ。そういう意味で,研究所に求めるものが変わってきていると思うのですよ。そういう意味でいうと,環境変化ですね。それで,一人ひとりが別に集まらなくても研究できるような仕組みになってきて,そういう意味でいうと,進化ではないかと思います。

大曽根:

 ありがとうございます。次は,蔵下所長時代に会計をされていた綿貫先生お願いします。

綿貫:

 毎年3月の年度末に会計処理で非常に苦労したことを覚えています。しかし,どうにかそれも先生方のご協力で大過なく済みました。実は当時,年報などの出版物が出来上がるのが3月末ではなくて,ひどい場合には次の年度の6月,7月ということがあったのです。でも私から編集の先生に早くしてくれとはなかなか言いにくいということがありました。それで,魚田所長に言っていただいて,その後,きっちり3月に出版できるようになったということで,魚田先生には感謝いたしております。

大曽根:

 ありがとうございます。情報科学研究所が情報科学センターから独立した頃のセンター長は小島先生なので,そのあたりの話を少しお話いただきたいと思います。

小島:

 後で話をしますけれども,センターが1号館から9号館に移動したということが,研究所の独立に大きい影響を与えたと思います。センターが1号館にあった時には研究所とセンターは非常に近い距離にあったのですけれど,センターが西の端の方にいってしまって,情報科学研究所は東の端に取り残されるというような現象が起こってしまったものですから,ますます離されてしまったという面があったのではないかなという気がします。

大曽根:

 ありがとうございます。この時代についてはよろしいでしょうか。

魚田:

 もうひとつだけ,ちょっと。さっき坂本先生が「再履修」をやっているという話がありましたが,僕が所長を1年しかやっていないということを弁明しておきたいと思います。つまり,学部長をお引き受けすることになり,学部長職に専念するために,他大学の非常勤講師を含めて,公職を全部切ったのです。そのひとつに研究所の所長もあったわけです。その後任を何とかお願いできる人をと考えたら,急なことで坂本先生しかいなかったのです。先生に何回も駄目と言われたのですけれども,何とかしてくださいということで,お優しいものですからやっていただけたわけです。

第4部:現在から未来へ

大曽根:

 それでは,いよいよ最後になりましたが,第4部に移りたいと思います。2001年にネットワーク情報学部が設立され,コンテンツ系など新しい分野の先生方が所員として入り,研究所の研究分野も新たな広がりが見られるようになりました。また,社会ではユビキタス時代へ向かって情報技術が目覚ましい発展を遂げております。情報科学研究所も「社会知性の開発」という本学の21世紀ビジョンに基づき,新時代に向けていくつかの新たなる試みを行うようになりました。そういう状況の下で,2005年度からの研究所の活動について,「現在から未来へ」というタイトルで綿貫先生にお話していただこうと思います。

綿貫:

 私は2005年度から2期4年,所長を務めさせていただきました。研究所では,実質的な仕事は事務局長の大曽根先生がいろいろと企画作成など,実際の運営をしてくださり,無事4年間過ごすことができたということで感謝いたしております。

 研究所はいろいろな活動を行っておりますが,大曽根先生が所長になられてからの時代も含めて,近年の新しい試みについてお話させていただきたいと思います。私が全部把握しているわけではありませんので,大曽根先生あるいは実際に関係された先生方から補足やご意見をいただければ,ありがたく存じます。

 情報科学研究所は,ご存知のように,「社会知性の開発」という専修大学の教育・研究の理念のもとに活動をしております。「社会知性の開発」とはどういうことかと申しますと,基本的教育理念として大学の講義で学んだ基礎の上に,自分で社会の実情を見て,自分で考え,自分の意見を持ち,問題解決ができるように教育をすることだと思います。すなわち書籍や講義で形式知を演揮的に伝達し,社会と連携して自ら体験することにより,一つ一つの事例から帰納的に暗黙知を形成する。理論と実践の相乗効果により理解が深まる。そのために,社会と関わって,社会の進歩と同期をして,産官学連携教育あるいは研究を推進する。ネットワーク情報学部では,そういう目的のために産官学連携推進委員会があります。

 私の所長時代に始めた新たな試みのうち三つを中心にお話しさせていただきます。ひとつは,情報教育の研究と成果ということですね。後で詳細をご説明いたします。二番目といたしまして,大学院生の研究・教育指導のための研究会。三番目として,川崎国際環境技術展への出展。こういった新たな試みを始めております。その他にはネットワーク情報学部と共催で,国際的に著名なストールマンの講演会なども開催しております。

 第一の新たな試みとして,情報教育の研究と成果に関する研究会では,少ない時でも,講師7名による講演と討論,そして,多い時ですと12名の講師が講演・討論を行っております[7]。平成19年から毎年2回実施をしております。どういう方が参加されているかということですが,専修大学の専任教員の方々,学外の大学や企業・研究所,そういった兼任講師の方々が参加されています。この研究会は今後も続くと思いますが,課題を検討して,改善方法を提案して,これから今後ますます成果があがっていくかと思われます。

 第二の新しい試みとして,大学院教育の支援を行っています。経営学研究科の情報管理専攻の修士課程の学生を対象に,大学院生の研究発表会を年に1回実施しております。これは平成18年から始めて,既に5年間続いております。大学院生たちの修士論文に関する研究発表をさせて,先生方にコメントしてもらうことにより,研究の質を向上させることを目的としています。

 それから,第三の新しい試みといたしまして,川崎国際環境技術展への出展があります2010年の環境技術展には,117団体199ブースの展示があり,1万500人が参加しております。環境問題は地球規模の最重要課題であるということで,世界的にも各国が協力して温暖化防止等の環境問題に対策を講じているかと思います。専修大学のある川崎市でも非常に熟J山こ取り組んでいます。企業では,日立,富士通,三菱電機,それからGoogle,IBMなどの大企業も取り組んでおります。そういった企業の講演会に行きますと,企業では温暖化対策あるいは環境改善のために,製品をひとつひとつ見直すなど,非常に熱心に取り組んでいます。当然,大学や家庭でも環境保護のために実施していかなければなりません。本学では,情報技術を環境問題に適用するということを考えました。集合知とかセンサネットワーク,スマートグリッドなど,そういった研究分野に本研究所の能力を使えると思います。

 川崎市は,かつて公害の町として有名でしたが,それを克服した都市として技術やノウハウを持っております。例えば,臨海地域にリチウムイオン電池の工場を建設し,ギガソーラーというかなりの規模の太陽光発電の発電所を建設する計画とかありまして,そういった技術を世界に発信していくことを目指しております。専修大学は,川崎市にある大学として,川崎市と共に川崎国際環境技術展の主催者側の一組織になっております。川崎市に施設のある大学として,慶応大学や明治大学も本学同様に主催者になっております。多くの大学はハードウェアの出展が多いですが,専修大学では,ソフトウェアや情報技術を出展しています。2009年と2010年には,プロジェクトや卒業制作,大学院で行った研究成果を出展しております[8-10]。この一部は横浜の企業からの受託研究で行いました。2010年に展示した防災ゲームや拡張現実感による防災シミュレーションには多くの小中学生たちが集まってきましたが,子どもたちにはできるだけ”専修大学”という名前を刷り込むようにしました。

 その他に単発のイベントとして,2007年10月29日に,フリーソフトウェア運動のリーダーとして国際的に有名なリチャード・ストールマンの講演会を開催しました.ネットワーク情報学部の主催ですが,当研究所も共催し,一般公開して,他大学や関東近辺の企業などを含め学内外から多数の参加者が集まり600名収容の大教室が埋まりました。

 そういうことで,専修大学情報科学研究所は「社会知性の開発」という大学の理念のもとに活動をしております。産官学連携によって最新技術の教育・研究を行い,川崎市の展示会や情報処理学会などの学会発表を通じて研究成果の公表を行っております。今後とも,大学の社会的責任ということで,研究成果を社会に還元し,地球温暖化等の環境問題にも対応していきたいと思っております。

 そして,これからユビキタス時代がやってくるといわれております。今までは技術中心に考えられてきましたけれど,情報技術が社会に非常に大きな影響を及ぼすようになってくると,人間や社会の理解が不可欠になってきます。専修大学は元来文系の学科が基盤にある大学ですので,そのあたりが専修大学の強みになるのではないかと考えております。以上です。

大曽根:

 ありがとうございました。綿貫先生の後を継いで今,私が所長をやらせていただいております。私の貢献はそれほどありませんが,ひとつあるとすれば,栗芝先生にお願いして所報をリニューアルしたことです(図5)。

A4版のカラーになり,大変見栄えがよくなりました。さて,残った時間は研究所の未来ということについて話し合っていただこうと思います。私の悩みは,先生方が研究所に寄り付かないということです。つまり,先生方はコンピュータを自分で持っていて,使い方もよく知っている。研究所に入っても雑用をやらされるだけだと,そういうことが寄り付かない理由ではないかと思われます。こういう時代における研究所の存在意義は何か,これから研究所は何を目指すべきなのかということを,30分くらいディスカッションしたいと思います。

中村:

 例えば他の研究所の場合ですと,研究所のメンバーでどこか調査に行くとか,あるいは研究所の予算を使ってアンケート調査をするとか,そういう役割があるのですね。ところが,情報科学研究所では外へ行って何かをするとか,あるいはみんなで集まって何かするという役割があまりない。もともと,研究所ができた時には,ここに来れば,電子計算機を使うためにいろいろと便利ではないかと思う人がいて,情報科学やデータ処理に関係ない人も研究所に集まってきたのだと思います。ところが,それがいつの間にか情報科学自体の中身が変わってきたのですよ。計算だけではないわけです。例えばパソコンでグラフィックのデザインをするとか,パソコンの使い方が変わってきたのです。そういうことは情報科学研究所ではなくても,情報科学センターの方でいろいろと講習会をやっているので,研究所にそういう役割は期待されなくなっているというのが私の感想です。

佐藤:

 「研究会」を「研究所」にした時の状況と関係があると思うのですが,本学の場合の研究は,本来の意味での研究の拠点になっていないのです。生産がそこで行われるっていう感じがないのです。自分のやったことを人に聞いてもらうとか,人から何か話を聞くってことはあるのですが,非常に間接的な関わり方で,例えば現在どういうことがオープンプロブレムで,どんなアプローチがあって,我々がコントリビュートできるのかできないのかという,もう少し論戦をするような,そういう場面を共有しないと,研究所というのは,活性化しないのではないかという気がするのです。僕はもし,研究所が本来の役割を果たすのだとすれば,研究所がテーマをもって,それを解決するには,どういう人を寄せ集めて,どういうふうな活動を協力して行うかということではないかと思うのです。ただ,それには我々の実力というのも当然問われるわけだけれども。研究所でみんなが関心をもっている共有するテーマを決め,そのテーマを深めるということが大事な感じがしますね。みんな個人プレーで研究し,一生懸命論文を書いたけれども,ほとんど関心をもってくれない。僕も何本か,当時,相当最先端であると思えるようなものを,力を入れて書いたけれども,それについて議論したいという人はいなかった気がします。みんなの考えている興味の対象がそれぞれ多様だから,それを束ねるっていうのは中々難しいことで,無理に束ねてもしょうがないという気がしますが。

竹村:

 佐藤先生の今の話は,やはりないものねだりだと思う。つまりね,研究所のメンバーは全部関心が違うわけですよ。だから,自分と共通の関心というのは,学会とか同好の士の集まるところに行って議論することになるので,ここで無理にそんな共通のテーマを設けようというのは,それほど……。

佐藤:

全員共有でなくていいんですよ。複数がいればいいわけで,そういうテーマがいくつかあればいいのですよ。

竹村:

 だけど,なかなか複数もいないわけですね。だから,そういう意味では,研究所という名前はついているけれど,研究所で学会と同じような機能を期待するのは,それはちょっと,無理だと思う。

佐藤:

 研究所は学会ではないですよね。

竹村:

 だから要するに,同じ研究をやっている人たちが集まっているという状況ではないのだから,なかなか反応してもらえない。僕が佐藤先生の論文を読んでも何にもわからないものね。だから反応のしょうがないところがあるでしょう。だから,その中で緩やかな共通テーマをもうけてやるのは可能かもしれないけど,それを持続させるのは相当の努力が必要ですよ。だけど,情報科学研究所の所長を引き受けたら,やはり存続を目指さなければいけない。自ら解消するというのは,それは坂本先生に対して大変失礼な話です。一生懸命やった先輩たちがいるのだから,それは後輩が引き継いたら守らなきゃいけない。

坂本:

 ずっと話をうかがっていて,僕はたいへん感心したのですね。結局,コンピュータというものが出てきて,それを何とか取り込みたいということがひとつの理由ですよね。それからもうひとつ,佐藤先生の言われるような研究所,すなわち,共通テーマがあってそれを専門の研究員が研究するということは,ちょっと実現しえなかった。しかし,今,最後の綿貫先生のお話をうかがって,自分たちの研究とか便宜を越えて,教育があり,そして社会に発信していくというような方向に研究所が向かっていると思うのです。そうすると,教育の支援は既存の大学院と学部とどういうふうに関わっているのかが問題ですね。それらがある効果を発揮するのに研究所が非常に役立っているのかと思います。それからもうひとつ,発信する場合も,既存の学部があり大学院もあるから,その欠けているところを情報科学研究所という組織でもって,罪常に効果的に活動できているのであり,私はそれでいいと思うのです。教育機関の補完的な機能として,促進母体として非常にいいように私は聞こえました。これが二つの新しい方向ではないかと思いますね。情報科学研究所で,情報の非常に基本的な問題をテーマにして,みんなで研究していこうかというようなことは,佐藤先生の指摘の通り,なかなか難しいけれど,みなさんの努力で,意気込みをもってやられたらいいのではないかという印象をもちました。

中村:

 例えば,ある研究所では,授業でこういうものが必要なのだけど買えないという時に,研究所の予算をやりくりして,研究所に買ってもらうということがあったわけです。そういう教育の補助的な役割が研究所にあると思います。

齋藤:

 昔は,あんなコンピュータが欲しい,こんなソフトが欲しいというのが,ずっとあったのですけれど,最近はですね,私自身も年をとっているせいもあるけど,もう欲しいものがない。ソフトも大学のソフトで十分なのです。むしろ自分の能力がはるかに追いつかないということで,研究所として,ハードやソフト,ネットワーク関連の製品を買う時代はもう終わったのだと思うのです。そうすると,情報科学研究所の役割として考えられるのは,ひとつはですね,所員に向かっての情報の提供,これはあると思います。外部の人や先端の人を呼んできてお話をしてもらう。これは最近,非常に活発にやっていて,とてもいいことだと思います。私はごく一部にしか出ていませんが,これはぜひ続けてやっていただきたいと思います。それで,もうひとつはですね,今度は,所員に向かっての情報提供の逆ですね,結集というのが理想としてはあると思うのです。所員のアイディアを持ち寄ってひとつのプロジェクトを作って,何かやるというというのがあると思います。大学は基本的にバラバラですから,自然的な結集はあり得ないと思うのです。つまり,自然結集はない。とすると,情報科学研究所が主体となって,所長や事務局長が主体になって自らプロジェクトを決めて,結集して研究し,その研究成果を外部に発信する。それを,多少独断でもいいと思うのですけど,所員は消極的でも,所員をまとめて仕事をさせるっていうのかな,そういう研究体制を作るというのかな,それが,研究所の所長と事務局長の役目だと思う。だから,今,中村先生の言ったような教育上の補助的な役割もとても重要だと思いますけど,一方では,理想的には外部発信に向けて,何らかの結集を研究所が主体となって行うことが重要だと思います。とにかく,自然結集はありえないと思います。

奥田:

 佐藤先生の問題意識は,僕には十分によくわかるのですが,中村先生がおっしゃったように,研究所の機能が我々の時代ともう全く変わってきているわけですね。だから,その変わってきた時に研究所が何をやるかということなのですね。やはり大学間の競争ということが,大前提にあるということです。この「社会的知性の開発」というのは,一応,まがりなりにも,専修大学のスローガンになっているわけで,むしろ,先頭に立たなければならないのです。だから,それは現在の在職なさっている先生方が,好むと好まざるとに関わらず,それはやっぱりスローガンを盛りたてていただかないといけないと思います。また,先生方の個人の研究を学会その他でなさらないといけないし,研究所の活動はやはり大学としてのこのスローガンとどう結び付けるのか,大学間の競争にいかに勝つかということと結び付けていかないと,どうにもならないではないですか。その時は,このスローガンを情報科学研究所で言うならば,どうするのか。僕は極論すればね,所長とか事務局兵の仕事っていうのは,やはりそういう緩やかに作られたプロジェクトで,外部の金をつかんでくることだと思うのですよ。そういうことをして,研究所活動を活性化していただかないと,いけないと思いますけどね。とにかく「社会知性の開発」と絡ませなければならないのではないですか。

竹村:

 それは,今,社会知性開発センターがかなりやっています。あれは,研究費をとるためにやっているようなところがある。オープンリサーチや何かでね,何件か取れたりしているのだけれども,たぶんそれを情報科学研究所でやったら重複になりますね,大学組織内で。

大曽根:

 外部からお金をとってくるということでは,蔵下先生や魚田先生の所長時代に,キャンパスオンデマンド(COD)というのをやりました[11-15]。授業を撮影して,それをネット上にアップして,学生がいつでもどこからでも視聴できるというシステムです。それで,補助金を文科から2回6年間獲得したと思います。私や松永先生が中心となってやりましたが,それが本当に大変でした。ゼミ生に協力してもらって,ビデオ撮影して,デジタルデータに変換して,ネット上にアップするのですが,私やゼミ生の負担が極めて大きいのです。それで疲労困億してしまったという記憶があります。

齋藤:

 研究資金の獲得については,いろいろな大学で非常に熱心にやっています。いろいろなところへプロポーズして,研究資金を一生懸命集めています。それができる根本的な理由は,大学院の学生の存在だと思います。要するに,学位論文を出さなくてはならない大学院学生が大勢いると,それが研究成果の出る源泉になっていると思います。我々には大学院生がほとんどいないので,プロジェクトの研究成果もなかなか出せないのではないでしょうか。研究資金を集められない根本原因はそこにあると私は思います。

佐藤:

 研究所で知的な財産をずっと貯めるというようなことを,心がけるといいのではないかと思います.それには,年間テーマみたいなものを設定して,それに先生方が何らかの形でコントリビュー下して,全員でチームワークとして研究をする。それを次々とやっていく。そしてそれをみんなで共有して,「あのことは何年前かみんなで考えたよな」というようなことを振り近れるようにしておけばよいと思うのですね。そうすれば,教育にも使えるだろうし,自分が他のことを考えるときにも,それはヒントになるかもしれない。そういう財産を少しずつ貯めていくという作業を共同でやるということをすれば良いのではないか。例えば,地球の問題をテーマにしたとすると,物理の人も統計の人もいるわけだ。そういう人たちが同じ問題について,コントリビュー下して,互いに議論する。誰々が言ったことは本当なのか,嘘なのか,何が根拠でああいうふうに言えるのかということについての丁々発止の議論をする。そうすれば,自分の知らないことが吸収でき,研究が深化する。講演会というのは,ああなるほどそういうことが現在問題なのかということはわかるのだけれど,これは少し一般教養すぎる。

 だから,研究所というからにはね,何かテーマを決めて,少しずつ何かを明らかにするとか,知識かな,知性かな,そういうものを貯めこんでいって,それがだんだん財産として増えていくということをみんなで共有できるといいなと思います。雑誌には特集があるじゃないですか。これは編集者が非常に苦労するのです。毎月毎月新しいテーマで原稿を依頼しなければならないので。それが研究所のように1年に1回ならばそんなに苦労しないで済みますからね。

大曽根:

 何かテーマを決めて,原稿募集して特集を組むのですね。

佐藤:

 そう。毎年でなくてもいいかもしれないけど,特集を組んで,それぞれが少しずつ書いてもらう。「こういう企画を立てているのですが,原稿を書いてくれませんか」と依頼する。それが,ひとつの財産になるような気がする。

齋藤:

 確かに,佐藤先生のおっしゃるように年1回とか2年に1回とかいうのなら,そのテーマを聞いて,それに関して外部に発信するというのは可能ですね。

大曽根:

 時間も迫ってまいりましたが,魚田先生,何かおっしゃりたいことがありますか。

魚田:

 僕はね,今の綿貫先生と大曽根先生の時代になって,所長さんは本当によくやっていらっしゃると思うんですね,ペアで。よその研究所とは比べられないのですが,少なくとも僕が在任中の時から比べれば,いろいろなことをやっておられます。それでね,今,綿貫先生が紹介された環境展への出展なども立派だし,その他,イブニングセミナーとかいろいろなものをやっていて,本当によくやっていらっしゃると,僕は思っています。しかし,僕が外に出て思うのは,やはり最後の詰めが甘いことです。中で議論をするのだけれども,外へ発信をしない。それで,さっきの綿貫先生の話にあったこの定例研究会,それから大学院生の研究報告などみんな素大曽根:晴らしいと思います。そこから何か情報発信されたら良いのではないかなと思うのですよ。まあみなさんも1回出席していただいたらわかると思うのですけど,情報教育研究会というのも,素晴らしい活動だと思います。こんなに良いFDの方法はないと思うのですよ。だから,それをぜひ外部に報告していただければいいなあと思っています。

大曽根:

 情報教育の研究成果は,実際,教科書に反映されていて,教室で使うスライドにも反映させています。

魚田:

 その成果は教科書として,経営学部とネットワーク情報学部の教育に反映していますし,全国の大学にも約5万部売れている評判の良いものです。

小島:

 そこまでいけば立派なものですね。そうでないと,先ほどおっしゃったように詰めが甘いという問題になってしまいます。

竹村:

 そういう意味では,研究所のひとつの役割として,教育と研究をつなぐような役割があると思うのです。大学院の発表会をやってくれているのは,たいへんありがたいことです。だけど,やっているのは経営学研究科の院生だけです。商学研究科だって経済学研究科だってやっていいと思うのですが。だから,情報科学研究所が全学の共通の研究所というのならば,他学部にも研究科があるのだから,事務局のほうで,経済だとか商学の修士論文を書いているような院生に声かけると良いと思います。あるいは指導教授に声をかけるとか。この研究発表会は,大学院の発表会のリハーサルになるから非常に有益ですね。

大曽根:

そろそろ時間なので,まとめたいと思います。本日の座談会で,研究所の起源と発展の経緯が明らかになったと思います。そして,情報化社会の進展による環境変化に対応した研究所を構築し,研究テーマを明確にし,そのもとで社会に貢献する研究を進めていくべきだという結論に達したと思います。白熱した議論により,あっという間に3時間が経過してしまいました。ご出席の皆様からは,温かいお言葉や激励のお言葉をいただきました。みなさんどうもありがとうございました。

謝辞

平成22年3月5日にサテライトキャンパスにおいて開催された”情報科学研究所設立30周年記念座談会”は,平成21年度専修大学情報科学研究所共同研究助成「専修大学情報科学研究所の起源と発展」により実施されました。情報科学研究所に深く感謝いたします。また,座談会の記録を献身的に手伝っていただいた大学院学生の永井美帆さんにも感謝いたします。

参考文献

[ 1 ]専修大学情報科学研究会, 「情報科学研究会だより第1号」,情報科学研究所所報, No. 1, p.33, 1982.

[ 2]坂本資, 「情報科学研究所発足のころ一情報科学研究所と私-」,情報科学研究, No.27, pp. 1-14, 2006,

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1982.

[4]奥田和彦, 「学際的研究における基本問題」,情報科学研究所所報, No.8, pp. 1-17, 1984.

[ 5 ]坂本貸, 「情報科学研究所発足の記録」,情報科学研究所所報, No, 1, p.23-32, 1982.

[ 6]蔵下勝行, 「情報科学研究所と私一情報科学研究所の過去・現在・将来-」,情報科学研究, No.26, pp. 1-9,

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[7]大曽根匡, 「経営学部における情報系科目の変遷」,情報科学研究, No.29, pp.23-38, 2008.

[ 8]綿貫理明,戸口裕人,小菅拓真, 「Web2.0技術による環境情報の可視化と産官学連携による成果公開一第1回日日崎国際環境技術展2009への出展-」,情報科学研究所所報, No. 72, pp. 14-25, 2009.

[ 9] -候貴彰,大曽根匡, 「避難誘導ゲームにおけるNPC制御の研究」,情報科学研究所所報, No. 73, pp. 30-48,

2010.

[10]綿貫理明,大曽根匡, 「川崎国際環境技術展2010出展報告-「社会知性の開発」と産官学連携による教育・研究の成果公開-」,情報科学研究所所報, No. 74, pp. 9-13, 2010.

[11]大曽根匡, 「情報教育とキャンパス・オンデマンド」,情報科学研究所所報, No.52, pp.卜8, 2000.

[12]白石克己,鹿瀬敏夫,金藤ふゆこ編, 「lTで広がる学びの世界」,専修大学「キャンパス・オンデマンド(COD)」,ぎょうせい, pp.250-251, 2001.

[13]大曽根匡, 「CODの本年度の進捗報告と来年度以降の計画」,情報科学研究所所報, No. 57, pp. 1-8, 2002.

[14]松永賢次,大曽根匡,蔵下勝行, 「専修大学におけるオンデマンド教育の取り組み」,平成15年度大学情報化全国大会, (礼)私立大学情報教育協会, pp. 102-103 (2003).

[15]大曽根匿, 「教育用デジタルコンテンツの開発」,情報科学研究所所報, No.67, pp. ll-20, 2007.

[16]綿貫理明, 「専修大学情報科学研究所2.0-Web2.0時代の情報科学研究所-」,情報科学研究所所報, No. 67,pp. 42-46, 2007.